「死を無駄にしない」という言葉の違和感。死を利用するのか?

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死を無駄にしないために」といった発言にたいして、あなたは違和感を覚えませんか?

 

それもそのはず、

  1. 無駄
  2. 有益

などという区別が、そもそも死には存在しないからです。

有益な死がないのとおなじように、無駄な死もありません。

 

この記事では、

  • 死を利用するのは善か
  • 利用価値がなければ無駄死にか

など、「死を無駄にしないというフレーズの違和感」について書きました。

ぜひ参考にしてみてください。

 

 

「死を無駄にしない」という言葉の違和感

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事件や事故で家族を失った遺族が、

  • 妻の死を無駄にしないために
  • あの子の死を無駄にしてはならない

などと発言しているのを、あなたもこれまでに見聞きしたことがあるはずです。

 

たとえば、他人の危険運転により家族の命を奪われた遺族が、「家族の死を無駄にしないために」などといいながら、交通違反の厳罰化や規制化を求めることがあります。

 

これはつまり、死を利用して法律やルールを変えようとしている、ということです。

 

「死を無駄にするのはダメだ」といった正義感や使命感を遺族は持っているようですが、「死を利用する」ことに関して、遺族はどのように考えているのでしょう。

 

死を利用するのはOKか

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事件や事故の犠牲となった家族の死を利用し、世間に訴えかけ、世論を動かし、制度を変え、おなじような事件・事故を起こさないようにするのが「死を無駄にしない」ことだといいます。

  

法律やルールを変えることができなければ、その人物の死は「無駄になってしまう」という前提がここにはあるわけです。

はたしてそうでしょうか。 

 

利用価値がなければ無駄な死だ」とは、どうも健全な考えではありません。

というのも、そもそも死というのは、何かに利用するものではないからです。

 

  • 抗議のために焼身自殺
  • 復讐としての飛び降り自殺

これらの死は、いずれも自らの意思やメッセージを伝えるための手段となっています。

とすれば、いずれの自死も本人が「死を利用した」ことになり、死が「無駄にならなかった」といえてしまうのでしょうか。

 

家族の死を使って世の中を変えるのが善で、死を利用しなければ悪(無駄死に)なのでしょうか。

 

 

利用価値のない死は無駄死にか

「死を無駄にしない」の理論でいえば、何にも利用できなかった死は、すなわち無駄死にということになります。 

 

  • がん
  • 溺死
  • 轢死
  • 焼死
  • 老衰

これらで命を落とした人々は、もれなく無駄死にだったのでしょうか。

 

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もし祖父を皮膚がんで亡くしてしまったら、

祖父の死を無駄にしないために、僕は将来かならず医者になり、画期的な治療法を見つけ、がんで死ぬ人をこの世から無くすんだ」

と心に固く誓わなければならないのでしょうか。

 

もちろん、そんなことはないはずです。

家族が死んだら、葬式をし、火葬をし、納骨をし、終了です。

家族の病死は、無駄でもなんでもありません。

 

他者に失礼な発言

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むしろ「無駄にしないために」という大義名分を掲げ、死を利用する行為こそ、不謹慎であり、あさましいといえるでしょう。

 

なぜなら、死はただの現象であり、死に意味を見出す必要がないからです。

 

「死を無駄にしないために」といった発言をしてしまうと、その他大勢の死を「無駄死に」とすることになり、たいへん失礼です。

したがって、死を無駄か有益かで語るのは、避けておくに限ります。

 

この世に無駄な命がないのとおなじように、無駄な死もまた、存在しません。 

 

まとめ

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死を無駄にしないというフレーズの違和感についてお伝えしてきました。

 

「死を無駄にしてはならない」

のか、

「死を利用してはならない」

のか、どちらが正しいのでしょうか。

 

ところで経済学には、サンクコスト(埋没費用)という考え方があります。

たとえば、チケットを買って映画館に入ったものの作品がつまらなかった場合、私たちはどうするべきでしょうか。

 

  1. 最後まで観る
  2. 途中で映画館を出る

経済学的に正しいのは後者です。

なぜなら、すでに支払ってしまったチケット代はサンクコスト(もはや回収できない費用)なので、その後の意思決定で考慮すべきではないからです。

 

つまり、「払ったチケット代がもったいないから」と考えると、チケット代も時間も無駄にしてしまう、ということです。

途中退席すれば他のことができるので、こちらが合理的判断。

 

死についてもおなじではないでしょうか。 

どうあがいても、死者が蘇ることなどありません

つまりこれは、映画のチケット代に相当するサンクコストと考えることができます。

 

「死を無駄にしてはならない」と奮起し、法律や制度に挑むのは、サンクコストにとらわれすぎているといえるでしょう。

 

したがって、

  1. モラル的にも
  2. 経済学的にも

「死を無駄にしてはならない」は好ましくない考え方だといえそうです。

 

以上、死を無駄にしないというフレーズの違和感についてでした。

結論。無駄な死も有益な死もない。だが「死を無駄にしないために」発言により、少なくともその時点では、当事者の死が「無駄」と定義されてしまっている。死者に失礼。

このままでは無駄死にだから、法律を変えて、意味ある死にしたい。いや、このままでは無駄死になのかよ、っていう。死者もビックリ。

 

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